特別対談 修験道とトレイルランニングは似ている?

鏑木:
そうですね。僕がやっているトレイルランニングはスポーツですけれど、お話を聞いて共通点がすごくあると思いました。

山を走るランニングですが、常に自然と対話しながら走っているんです。やみくもにピークを目指すのではないというお話がありましたが、まさにトレイルランニングもそうで、自分自身あるいは自然との対話です。
山伏の方々のように山を巡りながら拝む、といった行為は私たちはしませんが、気を感じる場所では立ち止まってふと自分自身に問いかけてみたり、あの場所に行くんだ、ということが目的ではなくて自分の足の向くまま、気の向くままに山を楽しんで帰っていく。
時には自然の中で風雨にさらされたりいろんな危険もあります。そういった中で自然と上手くやりとりしながら、自然を征服するのではなく、自然の流れの中で上手く自分自身を、活路を見出して走る、そういったところに魅力があるんです。

どうしてもトレイルランニングというと、ただ山を1分1秒を争って走るというイメージがあるんですが、そんなことはないんです。いちばんの醍醐味は山を走ることによって自分自身がわかるんですね。
10時間以上歩き続けるとおっしゃってましたが、まさしくそうで、私たちも時に20数時間ぶっ通しで走る中で、ホントに自分自身の精神が壊れていって、幻覚の世界でいろんなものが見えてくるんです。
疲労の極限の中で山中を走っている時に、自分自身が一体何者なのかが初めてわかるんですね。あ、自分っていうのはこういう人間なんだ、と普段ではわからない本当の自分の姿がわかる。私たちは信仰心から走っている訳ではありませんが、そうしたメンタリティという部分では似てるなと思うんです。そういう意味では、吉野や熊野の山を走るということは私たちにとっても魅力的です。

田中:
初めて修行に来られた方を「新客」と言うんですね。私たちの修行は、私のように
何度も行っている人間も、初めて来た人も同じように一緒に歩く。その時、新客の人に常に「我を捨てましょう」と言います。

都会の生活、日常生活では何でも自分中心に生きている部分があるじゃないですか。けれど山に行くと都会で生活している論理というか、いわゆる自分の都合を山に持ち込むのではなくて、神仏の山の世界の在り方に合わせること、それが修行なんです。自分の自我を持ち込んだままではその世界に入っていけないので「我を捨てましょう」と言うのです。

難しいんですけどね、なかなか捨てられるものではないのですが。でも歩き始めて6時間くらいはみんな元気に歩いていても、8時間も超えてくるとね、「なんでこんなことしてんねん」と愚痴が出る。更に「懺悔懺悔六根清浄」と1時間くらい唱え続けていると、「なんでこんなにしんどいのに声出さなあかんねん」とかいろいろと思うわけです。それでもそれがさらに、10時間も超えると「まあ言われるようにしよ」、「終わりと言われるまでしよう」とあきらめが出てくる(笑)。却ってすんなりと我を捨てて、我の塊であった自分が消えて、ちょっと素直に、「俺もこんなんでええのかな」とか「重荷がとれたな」とかね、そういうことになるんですね。

ただちょっとトレイルランニングと違うと思うのはね、その歩く行為の中に、自分を超えたもの、それは神でも仏でもいいのですが、そういうものとお経を唱えながら対峙する時間や相向かう時間があって、それによって自分の我がとれていくような、気づきが生まれるような…そんな儀礼というかシステムが山の修行の中ではまさに1000年もかけて作られてきた、そういう凄さというか、心地よさがあるんだと思います。

日本人にとって山は聖なる場所

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日本版トレイルランニング

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