田中:
ちょっとお聞きしたいのは、トレイルランニングというのは欧米で始まるわけですが、一神教の世界というのは、自然と人間が神の同心円にはいないんですね。日本人の神仏は、人間の同心円の中にいて、自然もあって、神が超越していない。これに対して神が超越している一神教というのは逆に言うと、神と契約した、帰依した人間はどのように自然を切り取ってもいいという、そういう論理が実はあって、その道筋で自然を征服してきたし、平気で自然を切りきざんできたのです。でも私たちの自然との関わりは、自然の中に神仏がおられ、その中に入らせていただく。そういう基盤を持っているので、自然に対する想いの形が違うんですね。最近の日本人はある種、豊かになりすぎたせいもあって、どこか心が壊れかけているところがありますが、それでも日本人としてのDNAの中に自然との関わりを大事に守ってきました。逆に欧米の人たちはそうじゃないところから始まっている。西洋登山の歴史はわずか200年程度なんですね。昔の欧米人にとっては森や山というのは悪魔が棲む場所でそこには入っていかなかった。欧米の森は一度自然を平らにしてもう一度木を植えたと言われます。
日本人は自然そのものをそのままで尊んできた。だから「お山」に入ると、そういう敬虔な想いを自ずから取り戻すと思うんです。欧米発のトレイルランニングはその辺はどうなのかなあ、と。
鏑木:
そうですね。僕も海外のレースやフィールドを走るんですが、すごく景色がいいんですね。
だから海外のフィールドはいいのかなと思っていたんですけど、日本に戻ってきてしっとりした森の中を走ると、また海外とはまったく違った雰囲気を感じるんですよね。
僕がみなさんによくお話しするのは、トレイルランニングをする時に山と喧嘩しちゃダメだよ、ということです。
山を征服している、とか山に勝つんだ、みたいな気持ちでいっちゃうと自分がダメになってしまう。上手く山と仲良く、トレイルを仲間や友達だと思って走らないと自分が潰れちゃう。そこをよく話しますね。
山岳信仰と似ているところがあるかどうかはわからないですが、先程の同心円の中に神様がいるというお話と同じような感じです。
確かにトレイルランニングはもともとは西洋のスポーツなんですけれども、実は僕は「日本版トレイルランニング」というのがあってもいいんじゃないかなと思っているんですよね。もっと山のことを知ったり、山の持つ歴史を知ったり、宗教的な部分もあってもいいと思うんですよね。そういうものを感じながら山を走るスタイル、それはまた西洋にはないスタイルなので、そういったスタイルのトレイルランニングをこれから自分自身でやっていきたい。
そういう意味では、修験道というものに少しずつ近づいてきているのかなあ、なんて思ったりはしているんですけれどもね。
田中:
やはり日本人が持ってきた自然との関わりとか、いろんなものとの関わり方というのは、欧米人が持ってきたものとは明らかに違うところがある。
だからトレイルランニングでも日本で関わっている方は、DNAの中に自然に対する畏怖とか敬虔な想いをお持ちなのかなと思います。
日本人は近頃は何でも欧米化していって、自分たちが持っていたものを少し卑下するところがありますが、本当は欧米人が憧れるようなものを今なお持ち続けているというところがあるんですね。
欧米で育ったやり方をそのまま日本に通じさせるのではなくて、今おっしゃったような日本的な形で新たな魅力を創り出すことが、本当の意味での日本人にとってのトレイルランニングになると思いますし、神との関係、仏との関係、信仰的なこと、あるいは人間の生きている根源的なことがわからなくなった現代において、そういうスポーツを通じて実は日本人が長く大事にしてきた世界に触れることができる、安心できることが大事になるような気がしますね。
鏑木:
先日、熊野古道を走るというイベントをしたのですが、参加者が言っていた印象深い言葉があって。
「普通の山道を走るのもいいけれど、宗教的な意味がある、昔からいろんな人が通ってきたいわく因縁のある道を走るというのはプラスアルファの喜び・楽しみがある」と。
そういうスタイルこそまさに西洋にはないスタイルです。そうした部分をぜひ若い方にも感じていただきたい。
いいきっかけになればいいなと思っているんですね、トレイルランニングという新しいスポーツで。
吉野や熊野には素晴らしいフィールドがたくさんありますので、いろんな形でご紹介していけたらなあと僕は思っています。
田中:
ひとつお願いがあります。欧米的なものというのは常に自分たちの論理を自然の中に持ち込もうとするんですね。
我々は歩かせていただく・入らせていただく、そういう日本人が大事にしてきた自然との関わり方を守ってきたという自負があるのですが、日本人のトレイルランナーの人たちにもそういうものを持って山に入って欲しい。
我々の修行の参加最低条件は、地下足袋で行きましょう、ということです。
地下足袋は実は痛くて、ランニングシューズとかトレッキングシューズのほうが足は楽になるんですよ。だけど我々にとって山というのは神仏の世界なので、山が傷ついて痛がるようなことはしない。
ストックも使用しない。我々は金剛杖という木の杖を使う。木ですと岩を突くと木が摩耗していきますが岩はそんなに傷まないわけですよね。
そういう自然に対する労わりや、そこに神仏を感ずる計らいみたいなものをアイテムとしても持っているわけです。
地下足袋ホントに痛いんですよ。あれが痛いから行きたくないという人もいるくらい痛いんです(笑)、でも足の裏を通して岩の痛み、自然の息吹、息遣いみたいなものを感じられるんですね。
そういうものをどこかで持っていただければ・・・。
鏑木:
確かに普通の山道を走るのとはまた違う意味があるなと思うんですよね。言ってみれば「郷に入っては郷に従え」という言葉のように、意味がある道にはなぜ意味があるのかということを理解して、そのルールに従って行動するということはすごく重要なことなので。
田中:
ひとつ大きなルールがありましてね。山上ヶ岳一帯は女人禁制なんですね。
女人禁制の在り方はいろいろご意見があるとは思うんですが、少なくともあの山を信仰の山として守ってきて、今に続いている意味というのは、信仰に関わっている人間がこれからどうしていくかというのが非常に大事で、そうじゃない人たちが自分の論理で壊していくというのは違うと思うんですね。
先程言ったその山が持っている歴史・風土を尊びながら入らせていただくのであれば、自分たちは関係ないからと土足でふみにじっていくような、自分の論理を持ち込んでいくというのは非常に問題も多い。
無理に入っていかなくても回り道をすればいいだけですから。
鏑木:
ええ、金剛杖の話も地下足袋の話も女人禁制の話も、きちっとした意味のあることですから、意味のあることをちゃんと理解しておこなうというのはルール、スポーツもルールがありますからね。
トレイルランニングは最もそういうところ、自然環境と対峙しなければならなかったり、いろんな歴史も重んじなければならないというところもありますので、しっかりと守らなければいけないなと思っています。